タイルの家の物語その8

前号では、スペイン語で“Biombo”の語源が、日本の「屏風」ではなかったのかと書いたが、“Guarache”(ワラッチェ)も日本語の「わらじ」が語源であったかもしれない。

日本語も品物と共に、海外へ渡って行ったことと思うが、反対に日本へ入って来た言葉もある。1543年に種子島に、火縄銃と共に漂着したポルトガル商人が、日本人が出会った初のヨーロッパ人であり、その後、ポルトガル語が商品と共に輸入された。間もなく、フランシスコ・ザビエルを筆頭に、イエズス会派宣教師が来日、ポルトガル語は、当時の流行語になった。

古い日本語だと思っていた言葉が、ポルトガル語だったりすることがある。例を挙げてみよう。「サラサ」、「ラシャ」、「じゅばん」、「こんぺいとう」などである。その他に、今ではすっかり日本語になり、漢字まで当てられて、ポルトガル語だったとは知らずに使われているものもある。例えば、「合羽(カッパ)」「歌留多(カルタ)」、「煙草」、「南瓜(カボチャ)」、「亜鉛(トタン)」。「カステラ」、「パン」、「フラスコ」、「ブランコ」もポルトガルから品物に伴って入ってきた言葉である。

今でも、ポルトガル語は私達の生活の中に生きていて、毎日使われているものがある。それは、「どうも、ありがとう」である。これは、ポルトガル語の「ムート・オブリガード」から由来し、ポルトガル宣教師が盛んに言ったことから、室町時代の流行語になったらしい。又、「ムート・オブリガード」は、武士語の「有難い」に、発音も、意味も似ていることから、すっかり日本語として定着し、現在では、ポルトガル語と疑うこともなく、「どうも、ありがとう」と言い交わしている。1590年に、活字印刷機がポルトガルより持参され、ローマ字活字本が出版され始める。1603年には、日本語・ポルトガル語辞典が、宣教師により作成、出版されている。そして、1630年に、スペイン語に訳され、日西辞典となって世に出ている。

ポルトガル人のロドリゲスは、1577年日本に来て、通訳として活躍し、日本語を体系的にまとめた「日本文典」を執筆、その後、マカオで、日本語方言も含めた当時の日本語全般についてまとめた「日本小文典」を書いている。杉田玄白の「蘭学事始」が世に出る200年以上も前のことであった。

スペイン語版はコチラ

著者/田中 都紀代、UNAM大学
スポンサーサイト

テーマ : メキシコ
ジャンル : 海外情報

タイルの家の物語その7

ビベロ伯爵の報告書には、読む者に不思議な感じを起こさせる箇所が多々あるが、ここで取り上げる日本の地名もその一つである。彼は「江戸」を“Yendo”、駿河を“Surunga”と記録している。これは単に彼の聞き間違いなのであろうか。もし、聞き誤りではないとしたら、“Yendo”、“Surunga”になっている理由は何であろうか。それは、当時の日本人がこのように発音していたからであり、彼の聞き取りは、正しかったからである。

実は、言葉の発音は不変ではなく、時代を経るにつれ、変化するものなのである。一つ、有名な例を挙げてみよう。現在の「母」(ハハ)は、その昔「パパ」であった。といっても、別に性転換した訳ではない。これは音韻変化の故である。今の「ハ」音は、平安・鎌倉時代には「パ(P)」と発音されていた。それが、室町時代に入り、「フ(f)」と変化し、江戸時代には「ハ(h)」音になり、現在に至っている。では、テープレコーダーのない、この時代の発音をいかにして突き止めたかというと、その方法は大きく分けて二つある。一つは、古文書から現在の「ハ」音が記されている箇所を捜し出し、その発音についてコメントしている部分から、どんなだったかを予測する方法である。例えば、古い「なぞなぞ」に、「母には二度会えて、父には一度も会えないもの、なあに?」というのがあり、答えは「唇」とある。つまり、唇は「母」を発音する時に、二度合わさっているので、「母」の発音は「パパ」であったことが解る。

二つ目の方法は、室町時代以降のキリシタン宣教師、欧米人による日本語のローマ字書き記録から、当時の発音を推測することである。室町時代の「ハ」音は、全て「f」で書かれているし、江戸初期の英国人コックの日記には「h」で記されている。(「箱根」“Hacomey”)つまり、現在の「ハ」音は、「パ」→「フ」→「ハ」という変化の結果なのである。

同じ方法で、「江戸」、“Yendo”について見てみよう。まず、気が付くのは、古代日本には、“e”音が三つあり、区別されて発音されていたことである。(ア行、ヤ行、ワ行の“e”、“Ye”、“We”)平安時代の紀貫之の文には、ア行“e”を「衣」、ヤ行“Ye”を「江」と書き分けている。ワ行“We”も、他の古文書に書き分けが発見できる。それが平安末になり、ヤ行“Ye”に統一され、ア行、ワ行の“e”、“We”は消えている。室町時代のキリシタン文献にも、全て、“Ye”で記録されている。この時代の政治の中心は関西であったので、ビベロ伯爵も中心地の発音に基づき、“Ye‐ndo”と書き写したのであろう。それが今、何故、“e”と発音されるようになったかは、中心地が江戸に移り、関東方言の“e”に変化したからである。しかし、この発音は、「ぞんざいな言い方」であり、あまりまねすべきものではない、と当時の文献はコメントしている。紀貫之が“Ye”を「江」と書いていることからも、「江戸」の「江」は“Ye”であったことが解る。

次に、“Ye‐ndo”の“ndo”、“Suru‐nga”
の“nga”についてはどうかというと、やはり、上代より、室町時代まで、ガ行、ダ行は鼻音で発音され、“nga”、“ndo”が正音であったという記録がある。それが東国方言の、かつ、江戸庶民の「歯切れのいい」“ga”、“do”に変化し、定着したようである。つまりは、ビベロ伯爵の書いた“Yendo”、“Surunga”は、当時の正統な発音の記録であって、聞き間違いではなかったのであった。

メキシコでは、「屏風(びょうぶ)」を“Biombo”と言うが、これは、フィリピン経由でメキシコに渡った時の発音を、当時のまま残しているのかもしれない。

スペイン語版はコチラ
つづく

著者/田中 都紀代, UNAM大学

タイルの家の物語その6

  
1608年に日本に漂着したビベロ伯爵「日本事情」が、既に亡きフェリッペ二世へ向けて書かれた「死者への手紙」であったと、前号で書いた。フェリッペ二世が世を去った、1598年9月に太閤秀吉も他界している。ユーラシア大陸の東端の日本の主権者と、西端の主権者フェリッペ二世の生い立ちは、みごとに正反対であった。フェリッペ二世は、「日の没することなき」神聖ローマ皇帝の息子として生を受け、秀吉は下層農民の出であった。その両者が、歴史の偶然により、同年同月に平等に死を受けている。そして、秀吉の後には、大物家康が続き、フェリッペ二世は、「存在価値ゼロ以下」の息子フェリッペ三世が続いた。

奇妙に思うのは、「日本国事情」が個人の日記ではなく、公文書でありながら、完全にスペイン王フェリッペ三世を無視していることである。たとえ、彼が無形であったとしても、このようなことが、許されるのであろうか。答えは、当時のメキシコとスペイン本国の関係に見出せそうである。
スペインの実権は、無形の王に換わり、レルマ公爵が握っていた。公爵という位は、日本の大名に当たる。現に日本も、明治維新後、ヨーロッパの華族制にならい、大名を公爵、次に石高の順に、侯爵、伯爵としている。つまり、レルマ公爵は、ビベロ伯爵より上位にあった。レルマ公爵の目にふれるであろう公文書で、彼の主人であるスペイン王フェリッペ三世を無視したのである。

これを許したのは、ビベロ伯爵の自信であった。その自信は、植民地メキシコにいた当時の貴族の自信でもあった。つまり、本国スペインは公爵の汚職と無能で、経済が悪化し、メキシコからの仕送りなしには、生活できなくなっていた。当然、スペイン国民は公爵に反発し、スペイン貴族の信頼は下落した。

その一方で、新天地メキシコに赴いた貴族は、古く腐敗したスペイン貴族になりかわり、本国を支えた。きっと、我らこそ、スペイン貴族の本流なりと思ったことであろう。確かにこの時代の貴族には、歴史に名を残す名君が多い。そして、彼達は、本国に競うように、華麗な館造りにいそしんだ。今、サンボーンズの本店となっている「タイルの家」も、その中の一つであった。その頃のヨーロッパ旅行者がメキシコ市を「宮殿の町」と呼んでいたのもうなずける。

ビベロ伯爵の「日本事情」は、まず、彼の直接の上司であるメキシコ副王に提出され、その後、本国スペインに送られたと思われる。この亡王フェリッペ二世宛の報告書を受け取った副王は、ビベロ伯爵の勇気をたたえた事であろう。

ちなみに、この副王ベラスコは、ビベロ伯爵の叔父であった。この叔父ベラスコは、メキシコ生まれのスペイン人(Criollo)として、初のメキシコ副王となった人物であり、甥のビベロ伯爵もクリオージョ(Criollo)であった。もしかすると、伯爵の報告書は、スペイン貴族二世の、スペイン貴族に対する挑戦状ではなかったのか。スペインの貴族一世は、新大陸メキシコに、古い本国では不可能な夢を抱いてやって来た。そして、二世は、その夢を確実にし、本国に勝利したのである。
 
スペイン語版はコチラ
                 
つづく

著者/田中 都紀代, UNAM大学

タイルの家の物語その5

前回は、なぜビベロ伯爵の報告書の中で、「将軍家康」が“Emperador Taikosama”(皇帝・太閤様)になったのかを見てきたが、報告書の中の「不思議」は、これが終りではなかった。とうのは、この文書は、当時のスペイン王フェリッペ三世(在位1598‐1621)へではなく、父王で、すでに10年以上前に他界しているフェリッペ二世に宛てて書かれているのである。もし、「二世」と「三世」が印刷の間違いでなければ、これは「死者への手紙」だったのである。

なぜ、こんなことをしたのか。まさか、伯爵が本国の王位がフェリッペ二世から、その子の三世へ移ったことを知らなかったはずはない。とすると、伯爵は、その時の王であるフェリッペ三世を、あきらかに無視したのである。そんな事が出来るのであろうか。これには深い訳がありそうである。

まず、伯爵に黙殺されたフェリッペ三世のプロフィールを見てみよう。彼は、スペイン王であり、かつ、神聖ローマ帝国皇帝のカルロス五世の孫であった。カルロス皇帝の統治した神聖ローマ帝国は、「日の没することなし」と豪語されたほど広大で、北はオランダから、南はスペイン、イタリアまでの全ヨーロッパ、それに植民地のラテンアメリカ、フィリピンにまたがっていた。ちなみに、メキシコに「カルロス五世」(“CarlosⅤ”)というチョコレートがあり、皇帝の雄姿がプリントされている。皇帝は、神聖ローマ帝国を弟に、スペイン、イタリア、オランダと植民地、ラテンアメリカ、フィリピンを息子のフェリッペ二世に譲った。フェリッペ二世もなかなかの人物であったらしいが、その息子のフェリッペ三世は、広大な領地を維持できず、プロテスタント化したオランダを失っている。彼はマドリード発行の「スペイン史」に、「無形以上の存在であった」と評されるほど目立たない王であった。帝王学教育をしっかり受けていたらしいが、本人は病弱で、メランコリー、かつ信心深く、礼拝堂に引きこもっては、お祈りに明け暮れる毎日であったという。父王フェリッペ二世は、息子の行く先を心配し、腹心の部下に補佐を頼んで息を引き取った。しかし、父王の死後、フェリッペ三世は、この補佐役を退け、自分のお気に入りのレルマ公爵を側近とし、かつ、全権を彼に委ねたのであった。

「スペイン史」(マドリード発行)によると、レルマ公爵は、金銭欲と名誉欲に長け、スペイン国を腐敗へと導くことにかけては有能以上であったが、現実の政治には無能ぶりを発揮したと書かれている。公爵により本国経済は悪化、やっと、ラテンアメリカ植民地からの収入で国政をまかなうほどになっていた。その収入の約半分が、メキシコからのものであった。

レルマ公爵の悪政は、スペイン全土の反発を呼び、失脚するが、フェリッペ三世も失望のあまり他界してしまった。王様と言えども、やはり三代目は大変らしい。

一方、父王のフェリッペ二世は、カトリック護将の使命感に燃え、イスラム教トルコ軍をレパント海戦で破り、又、プロテスタントの攻撃にも立ち向かって行った人気のある王であった。また、1584年と翌年の二回に渡り、日本から来た天正少年遣欧使節と会ったのも彼であった。

ビベロ伯爵の人生と出生は、この父王フェリッペ二世と共にあった。報告書を、あえて、他界したフェリッペ二世に宛てたのは、レルマ公爵に操られる息子フェリッペ三世を、自分の王とは認めない、という気持ちの表われではないだろうか。

フェリッペ三世の存在が、いかに無形であったかは、二代将軍秀忠の航海許可公式文書がスペイン王フェリッペ三世ではなく、レルマ公爵に出されていることからも理解できる。ビベロ伯爵が、将軍秀忠に、公式文書は、王ではなく、公爵に出すよう進言したのであろう。もちろん、ビベロ伯爵の心中は、さぞ複雑であったろうが、その進言を受けた秀忠は、スペイン国をどう見たのであろうか。

スペイン語版はコチラ

つづく

著者/田中都紀代、UNAM大学

テーマ : メキシコ
ジャンル : 海外情報

タイルの家の物語その4

前回、ビベロ伯爵がスペイン王に宛てた報告文に、徳川家康を“Emperador Taikosama”と記していたことについて、家康がなぜ、「太閤様」になってしまったのか推測してみた。今回は、「将軍」家康が、“Emperador”(皇帝又は天皇)になった訳を考えてみたい。


まず、思いつくのは、ビベロ伯爵が天皇の存在を知らされず、最高権力者家康を、ヨーロッパ式に“Emperador”という称号で呼んだのではないか、という考えである。ところが、史実は違っていた。ビベロ伯爵は2年近く日本に滞在していたが、その間、公式行事に来賓として招かれ、天皇と家康の両者を同時に見ていたのである。当然、天皇の存在を知っていたし、かつ、家康が常に、天皇の一歩後ろに居たことも見逃さなかった。それを知りながら、あえて将軍家康を“Emperador”と呼んだのはなぜであろうか。これはどうも、スペインのお国の事情によるらしい。当時のスペイン史をひもとくと、スペイン王の父王は、カルロス一世であり、彼は同時に神聖ローマ皇帝カルロス五世でもあった。父王は死に際し、神聖ローマ皇帝の座を、弟のフェルナンド一世に、スペイン王を息子のフェリッペ二世に譲った。皇帝は諸国の王をまとめ、その上に立つ者という意味があり、これからすると、王より皇帝の方が上位になるが、皇帝には、王のように血縁ではなく、選ばれてなった者という別の意味もある。例えば、古代ローマ帝国の五賢帝(トラヤヌス帝、ハドリアヌス帝など)は、世襲はなく、実力で選ばれて皇帝の座につき、又、ナポレオンは砲兵連隊より身を起こしたが、フランス王ではなく、最後はフランス「皇帝」になっている。


「王」が血による継承で、“Emperador”が実力による選出だとしたら、家康は“Emperador”ということになるのであろう。クエルナバカの大聖堂壁画の“EMPERADOR TAICOSAMA”(皇帝・太閤様)は、まさに、豊臣秀吉にふさわしい呼び方だったのである。


その上、ビベロ伯爵には、「王」の方を「皇帝」より上位にしておきたい理由があった。まず、彼が仕えているのはスペイン王であり、皇帝ではなかった。もし、日本の天皇を文字通り“Emperador”にし、家康を「王」にしたのでは、スペイン王が下位になってしまう。天皇に「王」をあて、家康を“Emperador”にすることにより、スペイン王が皇帝より上であることを伝えたかったのではないだろうか。


しかし、それでも、まだ、疑問は残る。家康の正式敬称は「将軍」、つまり“Capitan general”である。なぜ、この正式名を使わなかったのか。実は知らなかったからではなかった。


現に、日本と取り交わした文書には“Shogun”と書かれている。しかし、軍部の長を意味する「将軍」では、家康の偉大さをスペイン王に予測させるのは不可能と感じ、日本に対しては、“Shogun”を、スペイン王向けには“Emperador”という使い分けをしたと思われる。

いつの時代でも、敬称の付け方は難しいが、特に文化の異なる国の敬称付けは、生やさしいものではないようだ。ビベロ伯爵も、頭を痛めた末、家康を“Emperador Taikosama”と呼んだのであろうか。

スペイン語版はコチラで→

つづく

著者/田中都紀代、UNAM大学

テーマ : メキシコ
ジャンル : 海外情報

Facebook
Tabi Tabi TOYO

Facebook
Twitter
 
メールフォーム
読者投稿・お問い合わせはコチラ

名前:
メール:
件名:
本文:

アクセスカウンター
オンラインカウンター
現在の閲覧者数:
メキシコの時間
ブログランキング参加中
1日1回クリックお願いします!! にほんブログ村 海外生活ブログ メキシコ情報へ にほんブログ村 海外生活ブログ 中南米情報へ にほんブログ村 外国語ブログ スペイン語へ 人気ブログランキングへ
最新記事
カテゴリ
月別アーカイブ
最新コメント
リンク
ブログ内検索フォーム
プロフィール

TabiTabiTOYO

Author:TabiTabiTOYO
メキシコ情報&旅行誌「旅たび東洋」編集部スタッフがメキシコ周辺情報をお伝えしていきます。

その他の言語 Ver.2
それぞれの言語をクリックするとこのページを翻訳してくれます
日本語版
English Version
中文版
한국어
Version Française
Deutsche Version
Versione Italiana
Versión Española
Versão Portuguesa
最新トラックバック
編集部ペット★くろこさん
なでて可愛がってやってください
フリーエリア
フリーエリア